二〇〇八年五月八日、ベアテは東京都千代田区の内幸町ホールにいた。「憲法行脚の会」主催のシンポジウムで、土井たか子や落合恵子と語るためである。テーマは日本国憲法の第一四条と二四条。
法の下の平等と家族生活における個人の意義と両性の平等を謳ったこの一条はベアテの起草したものであった。当時、ベアテは二二歳。ベアテの人生をマンガにした樹村みのりの『冬の蕾』(労働大学出版センター)によれば、彼女が起草に関わったことは内密にされた。
そんな若い女性がと、よけいな反発を招くことを避けるためである。
「週刊金曜日」の九九年六月五日号で、ベアテは落合恵子と対談している。そこで落合は、ベアテが書いた草案のうち、三割ぐらいしか憲法の条文に反映されなかったとして、通らなかった条項の三つを次のように要約している。
一つは「妊娠と乳児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる」二つ目は「嫡出でない子ども(非婚の子)は法的に差別は受けない。」三つ目は「すべての幼児や児童には、眼科、歯科、耳鼻科の治療は無料にとする」。
こうした進歩的で画期的な草案をなぜベアテは書くことができたのか。
「リストの再来」といわれた父親のレオ・シロタが東京音楽学校(現・東京芸大)のピアノ教授になったので、ベアテは五歳のときに日本に来た。そして日本の女性たちが戸主(家長)の意のままに結婚させられたり、客が来ても同席せず、台所で忙しく働くばかりなのを目の当たりにし、これではならじと思ったのだった。凶作の時、身売りされる農村の娘の話も忘れられなかった。
もちろん、アメリカでも完全に男女平等が実現していたわけではない。大学を出て勤めた「タイム」の編集局には女性の記者は一人もいなくて、ベアテも男性記者の補助的な仕事をしていた。
前掲の『冬の蕾』には、こんな屈辱的な場面がある。占領直後、日本政府はアメリカ軍が要求もしないのにアメリカ兵のためにコールガールのサロンを早々に用意したというのである。「この話を推進したコノエという男性は何度も日本の首相を経験した公爵だというから驚くわね」
近衛文麿はこう指弾されているのだが、哀しい話である。日本とアメリカの戦争が始まってベアテは両親と連絡がとれなくなったことがあった。その間もたくましく生きてきた彼女は、英独仏露の四カ国語にスペイン語と日本語を合わせて六カ国語を操る。落合との対談の写真には「ベアテさんがしているスカーフには四一言語に訳された日本国憲法第九条が記されている」とキャプションがついている。
落合の「理想とする世界、地球は」という問いにベアテは、「一つは平和であることです。国籍がどうであれ、どこに住む人でも子どもが生まれれば喜ぶし、親しい人と会えば抱きしめて笑ったり泣いたりする。国や民族の文化の違いは大した違いではありません。宗教の違いも大差ありません。みんな同じ気持ちで平和に生きられるはずです。でも、社会的・経済的には平等にならなければなりません。一方に大きな金持ちがいて、他方に貧困にあえぐ人がいる社会は良くない」と答えている。
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