憲法行脚の会  


小向こうを相手に方言力で勝負せよ

佐高 信

5 月21 日に城山三郎さんのお別れの会がありました。土井さんも出られて、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平ほかいろいろな人が並んでいたわけですが、弔辞は辻井喬さんと、私と渡辺淳一の3 人でした。渡辺淳一と城山三郎は結び付きがないような感じがしますが、現にあったらしいのです。城山さんは7 年前に奥さんを亡くされて、渡辺淳一が写真を持ってきて再婚をすすめた。城山さんはそれを見て「君のお古じゃないだろうねJ と断ったという話をして満場爆笑だったのです。
辻井喬さんも「今、日本が戦争に向かおうとしている時に城山さんが亡くなったことが非常に悔やまれる」とはっきり言って、私がその次でした。私の2 、3 人向こうに中曽根が座っているわけです。その向こうに小泉がいる。そういう状況の中で、こんな弔辞を読みました。これから紹介していきたいと思います。

「城山さんにお会いするたびに、18 歳も年上ながら、この初々 しさは何故だろうといつも考えていました。国家の大義を信じて17 歳で海軍に志願し、すぐにそれに裏切られて、
以来、自分の時計は止まっているのだと城山さんは」己っていましたが、それだけではなかったのではないかと私には思えてなりません。奥さんに亡くなられて7 年『 父はよくがんばったと言います』 と娘さんは言われました。最後まで独り暮らしを貫き通した城山さんの初々しさは、ある種の厳しさと激しさに裏打ちされていたのです。
その温和な風貌からあくまでも優しい人のようにみられているかもしれませんが、城山さんは内部に熱いマグマを抱えている人でした。『 昨日、丸の内で大学時代の同級生に会ったのだが、おーい城山と声をかけるんだよね』 本名の杉浦で呼ぶべきなのに、おれは城山三郎を知っているぞと誇示するように声をかけたと城山さんは憤慨していました。親しかった友人をして、絶対に形の崩れない男といわしめた城山さんは勲章を拒否するなど、自らのス夕イルにはこだわったのです。しかし、決してそれを他人に押しつけることはしませんでした。だから城山さんを悼む政財界人に勲章をもらった人がずらり並ぶという喜劇が演じられることにもなりました。

自ら人見知りと称する城山さんは、パーティー等が苦手で、自分が審査員のそれにも出ないほどでしたが、杉浦日向子さんが文春漫画賞を受けた時のパーティーには出るといいました。杉浦さんの絵のファンということで、城山さんと私と3 人で鼎談をしたこともあります。そのパーティーには城山さんと同じ昭和2 年生まれの杉浦さんの父親も来ていました。このお父さんは吉原で遊んで家業の呉服屋を傾けた人で、だから日向子さんは吉原に興味をもったのだということですが、その話を聞くと城山さんは目を丸くして驚き、あの時代に遊ぶということを考えられたのですかと、本気で感心したのです。何度もそう言う城山さんに、お父さんが体を小さくして恐縮していたのが忘れられません。
城山さんのことは、私が一番よく知っているなどと独占するつもりはもちろんありませんが、城山さんを語る時、勲章拒否と現憲法擁護の2 点だけは外してほしくないと思います。城山さんは『 戦争で得たものは、憲法だけだ』 と口癖のように言っていました。まさに、城山さんの遺言というべきでしよう。城山さんは、旗は振るなといいましたが、城山さんの遺志として私は護憲の旗だけは掲げ続けていきたいと思っています。少年のような心をもったまま亡くなられた城山さん、さようなら、ご厚情ありがとうございました」
いわば中曽根と小泉にぶつけるようにしてしやべったわけですが、そのあと献花があって隣の部屋に行き、城山さんの写真を見ていました。渡辺淳一と並んでというよりも距離がありましたが、向こうはあまり親しくしたくなさそうでした。

そこへ小泉が献花を終えて入ってきたわけです。もちろんこっちも知っているわけですが、やはり私の弔辞はおもしろくなかったのかもしれませんが、「淳ちゃん」 と渡辺淳一に小泉が声をかけて、「淳ちゃん、弔辞最高だったよ」と。そうですかという感じで、『 小泉純一郎を嗤う』 という本を書いた私としては、声をかけるかと横に離れました。
どこかの新聞社の人が、勲章拒否の話をした時に、中曽根の顔を撮ったというのです。
でも眉一つ動かさなかったという話でしたが、何を言いたいかというと、城山三郎という保守の政財界人にもファンの多い人が憲法を擁護するというところの問題を、私たち護憲派が知らなければならない。福島みずほが護憲というのはある種当たり前の話です。城山三郎が護憲を言うところに対する感度が鈍い。だから城山三郎の取り合いになるのです。私は岸恵子の取り合いでは石原慎太郎に負けてしまったわけですが、あまり手当てをしていませんでしたから、岸恵子が変な特攻隊の映画にいってしまいましたが、ある種の取り合いということになると、今まで、社会党というのは大きな政党でしたから、大向こうに受ける。大向こうに向かってしゃべることが多かった。これからは小向こうでいいのではないでしようか。

月刊社会民主2007年7月号から抜粋

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