城山三郎さんを悼む
佐高 信・さたか まこと
「カネと組織」直視、指導者像を示す。

やはり、吉村昭さんの死がこたえたのだろうか。あまり文壇づきあいをしない城山さんも、同じ昭和二年生まれの藤沢周平さんや吉村さんには親しい感じを抱いていた。奥さんの死に続く吉村さんの死は、城山さんを「そして誰もいなくなった」という沈んだ気持ちにさせたのかもしれない。

 戦争中に鼓舞された「大義」を信じ、城山少年は十七歳で海軍に志願する。しかし、そこで見たものは、信じられないような上官たちの腐敗だった。自分たちには、粗衣粗食の上に厳しい訓練を課し、彼らはのうのうと暖衣飽食の生活を続けている。

 その現実にしたたかに打ちのめされて、城山さんは「組織と人間」をテーマに『大義と人間』をテーマに『大義の末』を書く。
皇国日本という大義は、自分の中で、どう崩れていったか。なぜ、自分はその大義を信じてしまったのか。一途な城山さんはその問いを終生手離さなかった。

 そして、自分は「志願」したと思ったが、あれは志願ではなかった。言論の自由のない当時の社会や国が「強制」したのだという結論に至る。
 
 権力者疑惑隠し法である個人情報保護法に突如反対し始めたように見えるかもしれない城山さんの思いはそこに発していた。つまり言論の自由こそが何よりも失ってはならないものであり、個人情報保護法はそれに反するとして、憑かれたように行動したのである。

 城山さんは音に敏感だった。それも、ラウドスピーカーで「志願」させられ、少年兵として癒えることのない傷を負ったからだろう。騒音をまきちらす店では買うなと、いつも奥さんに言っていたという。

 「輸出」で文学界新人賞を受賞し「総会屋錦城」で直木賞を受けた城山さんは、経済小説のパイオニアといわれる。およそ、小説の題名らしくない「輸出」等を書きつづけた城山さんは、いわゆる文壇で正当な評価を受けてきたとは言い難い。日本の作家で、おカネにまともに向き合った人は、それまでほとんどいなかった。しかし、それを無視して現実の生活は送れない。『小説日本銀行』から『官僚たちの夏』まで、城山さんは経済に関わる個人がどんな志を抱き、何に悩みつつ、それを貫き通そうとしているかを描いた。そして、ありうべきリーダー像を具体的に示したのである。

 『落日燃ゆ』の広田弘毅、『粗にして野だが卑ではない』の石田礼助、『男子の本懐』の井上準之助等、城山さんが彫刻した人間たちは、あるいは少数派かもしれないが、誇るべき日本の財産である。

 城山作品を愛読書に挙げる政財界人は多い。しかし、それらの人が城山さんの意図を真に理解しているのかと私は首をかしげることも少なくなかった。たとえば城山さんは勲章を固辞している。城山さんの推奨する石田礼助や中山素平も勲章辞退者だった。その意味するものをくみとってほしいと願うばかりである。

読売新聞 2007年3月23日朝刊掲載文


城山さんに最後にお目にかかったのは昨年の1119日である。

『週刊金曜日』が主催した日比谷公会堂での「憲法、教育基本法改悪阻止」の大集会に出てきていただいて、私が戦争中の話をうかがった。

城山さんは昭和二年うまれで、17歳で海軍に志願したわけだが、あれは志願ではなかった。と協調されたのが印象的だった。

言論の自由のない当時の社会や国が「強制」したのだというわけである。

「志願」と思わされた自らの未熟さを恥じ、そして、「志願」と思わせた指導者たちへの告発として城山さんは『大義の末』を書く。

 それだけに言論の自由の大事さへの思いは強烈で、数年前、個人情報保護法という名の権力者疑惑隠し法はそれを踏みにじるものだとして、反対に立ち上がった。政治的な行動からは距離を置くことの多い城山さんだっただけに、その鬼気迫る感じに私は少年の日に負った傷の深さを思ったものである。

 『男子の本懐』や『落日燃ゆ』等の城山作品を愛読書に挙げる政財界人は多いが、彼らは城山さんが徹底した護憲派であることを知っているのだろうか。

 私がお願いして呼びかけ人となってもらった「憲法行脚の会」の講演で、城山さんは、「戦争で得たものは憲法だけだ」と協調していた。多くの人の命をはじめ、さまざまなものを失って憲法を得たのだというわけである。

 小泉前首相も城山作品の愛読者だとして接近したが、改憲を掲げる彼に城山さんはすぐ見切りをつけていた。

 また、城山さんは勲章辞退者として知られる。「形式にこだわるには人生は短すぎる」というスターンの言葉が好きだった城山さんは、少年兵として国家に裏切られたという思いもあって勲章に拒否反応を示していたのである。

『粗にして野だが卑ではない』の石田礼助や『官僚たちの夏』の佐橋滋等、城山さんが取り上げた人たちも勲章辞退者が多かった。

 城山さんは詩人としてその文学活動をスタートさせ、『小説日本銀行』等の経済小説といわれるものを書いた。直木賞を受けたのは、『総会屋錦城』である。闇の世界をも知っている明るい世界を描こうとしたのだが、主人公が何で生活の糧を得ているのかわからない私小説が主流の日本の文壇では、城山文学は残念ながら傍流視されてきた。

正当な評価を受けてきたとは言いがたいのである。 

 そんなことを気にする風もなく、城山さんは書きたいもの、あるいは、書くべきものを書きつづけていた。

 城山さんとは何度か対談させてもらい、それを本にもしたが、城山さんは出版社が用意する車を断るのが常だった。城山さんが断るのに私が乗るわけにはいかない。電車の方が渋滞なしで遅くならないし、歩いた方が健康のためにもいいからという城山さんと二人で、対談の後、とりとめのない話をしながら帰ってきたのが忘れられない思い出である。

共同通信寄稿


スターン=ローレンス・スターン(英国18世紀作家)